PR

『米田哲也(元プロ野球選手)』とはなんだったのか

〇〇とは、なんだったのか
この記事は約5分で読めます。

米田哲也(よねだ てつや)は、1938年3月3日生まれ、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手で、日本プロ野球史上屈指の名投手だ。
阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)を中心に活躍し、通算350勝を記録した歴代2位の勝利数を誇る。
驚異的なスタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」と呼ばれ、949登板という日本記録を持つ鉄腕として知られる。

しかし、2025年3月25日、兵庫県尼崎市のスーパーで缶チューハイ2本を万引きした疑いで逮捕されたとの報道が流れ、Xで「通算350勝のレジェンドがこんな形でニュースに」と衝撃が広がった。

87歳の米田が歩んだ野球人生とは何だったのか。その輝かしい経歴から晩年の出来事までを振り返る。

米田哲也の誕生とプロ入り

米田哲也は、1938年に鳥取県西伯郡大篠津村(現・米子市)で生まれた。祖父は海産物仲買業、父は薪炭雑貨商を営む家庭で育ち、中学時代は陸上の走高跳選手だった。
境高校に進学後、野球部で捕手から投手に転向。カーブやシュートを武器に頭角を現すが、甲子園出場は叶わなかった。

1956年、高校卒業後に阪急ブレーブスと阪神タイガースの間で二重契約問題が勃発。阪急が先にスカウトしたとしてコミッショナー裁定で阪急入団が決定した。18歳でプロ入りし、1年目の1956年に初勝利。翌1957年には21勝を挙げ、19歳での20勝超えは驚異的だった。Xでは「米田の若手時代がすごい」と今も語られる。驚くべきスタミナと制球力が、後の偉業の礎となった。

全盛期:阪急のエースとして

米田の全盛期は、1960年代から1970年代初頭だ。阪急ブレーブスで左腕エース・梶本隆夫と「米梶時代」を築き、5度のリーグ優勝(1967年、1968年、1969年、1971年、1972年)に貢献。1962年には231奪三振でパシフィック・リーグの奪三振王に輝き、1968年には26勝で最多勝を獲得。最優秀防御率(1966年)やMVP(1968年)も1回ずつ受賞した。

通算350勝のうち、200勝を1966年8月14日に達成し、史上6人目の快挙。300勝は1971年10月に記録し、当時歴代1位の登板数(後に鈴木啓示に抜かれ2位)を誇った。Xでは「ガソリンタンクの耐久力が異常」と称賛される。故障知らずの鉄腕ぶりは、独自の食事法(肉中心の高タンパク食)や徹底した体調管理に支えられていた。

全盛期の特徴と魅力

米田哲也の全盛期には、いくつかの特徴があった。

驚異的なスタミナ

「ガソリンタンク」の異名通り、米田は登板間隔が短くても投げ続けた。通算626先発は日本記録で、完投能力も抜群。
1968年には11完封を記録し、パシフィック・リーグ記録として今も残る。Xで「現代じゃ考えられないタフさ」と驚かれるほどだ。

多彩な投球術

速球に加え、カーブ、シュート、スライダーを操り、特に「ヨネボール」と呼ばれるフォークのような軌道から横に変化する球が武器だった。
被安打4561は日本記録だが、これは登板数の多さを反映したもので、防御率2.91と安定感もあった。

チームへの貢献

阪急の黄金期を支え、1967年の日本シリーズでは巨人と激突。
惜しくも敗れたが、米田の存在感は際立った。Xでは「阪急の顔」と称され、ファンに愛された。

移籍と晩年:阪神・近鉄時代

1975年、37歳で阪神タイガースに移籍。移籍初登板で勝利を挙げ、ファンを沸かせた。
しかし、若手の台頭もあり、目立った成績は残せず。
1977年に近鉄バファローズに移籍し、同年10月11日、通算350勝を達成。史上2人目の偉業だったが、わずか11日後の10月22日に引退を表明。Xでは「350勝後の即引退が潔い」との声が上がる。22年間の現役生活で故障ゼロという記録も、米田のタフさを物語る。

引退後は解説者や評論家として活動。1985年には阪神の一軍投手コーチに就任し、21年ぶりのリーグ優勝と初の日本一に貢献。中田良弘の復活や中西清起のストッパー起用で手腕を発揮したが、監督・吉田義男との確執から1年で退団。1992年から1993年にはオリックスの投手コーチも務めた。

現在の状況と晩年の出来事

2025年3月25日現在、米田哲也は87歳。
引退後は鳥取県で少年野球教室を開くなど地域貢献を続け、2000年に野球殿堂入りを果たした。

しかし、2025年3月25日、兵庫県尼崎市のスーパーで缶チューハイ2本(約300円相当)を万引きした疑いで逮捕されたとの報道が流れた。Xでは「レジェンドがなぜ」「認知症か?」との憶測が飛び交い、衝撃が広がった。報道によれば、米田は「覚えていない」と供述しており、事件の背景は不明だ。

この事件を受け、米田の晩年が注目される。近年は公の場に姿を見せず、健康状態や生活状況も明らかでない。Xでは「350勝の英雄がこんな結末とは」と悲しむ声が聞かれ、往年のファンを動揺させている。

米田哲也の遺したもの

米田哲也が残した影響は計り知れない。まず、通算350勝と949登板は、日本プロ野球史に刻まれる記録だ。Xで「米田の数字は超人」と称されるように、後進への目標となった。
また、故障ゼロの22年間は、現代の投手管理に一石を投じ、「タフマン」の異名が示す耐久力が語り継がれる。

一方で、晩年の逮捕劇は、英雄のイメージに影を落とした。
高齢者の犯罪として認知症や経済的困窮が背景にある可能性も囁かれ、社会問題としての議論を呼んでいる。Xでは「レジェンドを支える仕組みが必要」との意見も。米田の功績と晩年の対比は、プロ野球史に複雑な余韻を残した。

まとめ:米田哲也の時代とその後

米田哲也は、1956年から1977年にかけて、日本プロ野球を代表する投手として活躍した。通算350勝、949登板という記録を打ち立て、阪急の黄金期を支えた鉄腕だ。
2025年3月25日の逮捕報道で晩年が注目されたが、その功績は色褪せない。

米田哲也とは、ガソリンタンクであり、タフな伝説であり、そして人間的な脆さを持つ存在だった。振り返ると、プロ野球の栄光と人生の儚さがそこにある。興味があれば、彼の全盛期の試合映像を探し、その鉄腕ぶりを確かめてみるのもいいだろう。