Warning: Undefined property: stdClass::$Offers in /home/xs766741/084deeps.com/public_html/wp-content/plugins/wp-associate-post-r2/classes/class-amazon.php on line 159
Warning: Attempt to read property "Summaries" on null in /home/xs766741/084deeps.com/public_html/wp-content/plugins/wp-associate-post-r2/classes/class-amazon.php on line 159
こんなタイトルにしてしまうと、病んでるのではないかと思われそうなんですけどふと思ったので書いてみる。(病んではないです)
“正義とは何なのか”
ジジイになった今だからこそ、向き合いたいテーマではある。
私と同じようにジジイ、ババアになるまでの間に正義というものの、形や大きさはきっと幼少の頃のものより小さく、角も取れて限りなく球体に近くなってるのではないでしょうか?
なんとなくこの意味合いがわかるかと思います。
悪があって光り輝く「正義」
幼少の頃の正義の基準というのは、「悪」と言われる存在があって成り立つものでそれは“世界を支配しようとする悪の秘密結社”とか“街を破壊する怪獣”だったりシンプルで、フォローのしようのないものだったと思います。
私は幼少期少し変わった子供だったのかもしれませんが、当時再放送の『仮面ライダー』を見ていた時、それまでは世界征服を企む悪の秘密結社「ショッカー」を絶対的な悪として観ていたのに、ふとショッカーの戦闘員が、アクションシーンで足を滑らせたのが目についた時に、何かしら人間臭さを感じて「この人たちにも家族がいて、これが仕事で家族を養ってるんじゃないか?」と思ってしまったのです。ですが、それも一瞬だったので、その後は勧善懲悪を楽しんでいました。
今思うと、この記事を書いている今の考え方のちょっとしたきっかけだったのかもしれません。
“戦争”を知り正義が迷子になる
他にもいろいろな作品を観た上で、小学生となり“戦争”というものを学びます。
そこで戸惑うんです。
誰が悪者なのか。誰がいい者なのか。
まったく、わからない。
生々しい話、当時の広島県の教育は社会問題にもなったのですが俗にいう「君が代問題」などの渦中の時代で「日本は第二次世界大戦で酷いことをした悪い国」と教えられて、国歌を歌わないのが正しいという、今では洒落にならないレフトサイドに思いっきり偏った教育をされていました。
そのくだりは、また今度コラムで書くとして、そう言った教育で当時の私には「自分はショッカーみたいな事をしていた国で生まれ育ったのか?」と思っていました。
20代前半、争いの“源泉”を感じ取る
時は経ち20代、イキリ散らかしたこの年代はバイクに嵌り込み、男臭さと妙なこだわりに無謀さを加えた、濃口のカレーのような正義を振り翳し、何かにつけて喧嘩になるという時代でした。
ギャングやチーマー真っ盛りのこの頃は正直なところ、相手サイドも似たような感じで、「退かないことの美学」が話をややこしくもしました。
それぞれに正義を持ってるから、本当に退かない。
でも、漫画なんかでいう「拳と拳でわかりあう」的な言葉ってこの辺りをシンプルに表現してるんじゃないですかね?
それぞれの信じる正義のもと、“拳を交えて”と言えばかっこいいですが小さいもので言えば言い合いとか口喧嘩の中で相手なりの正義を理解して、わかりあう。
そんでもって、コイツは熱いやつだと一目を置く。
サンズ・オブ・アナーキー シーズン1(SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]
そして社会人になり、生きていくための“正義”を知る
そして社会人となり、個人の正義を胸に秘めるにとどまる事を知る。
会社というイキモノに所属するというのは、会社の利益を守ることが大正義であり、個人の正義など基本的に存在しない。
仮に、自身の正義の延長線上に会社の利益があるのなら罷り通るが、そうでなければ会社にとってはワガママな邪魔者である。
ジジイになってしまった今では、例を挙げてしまえばキリがないのだが、幼少期の正義を胸に秘めた自分自身をたくさん葬ってきた。
葬りすぎて、もはや屍山血河と言っても過言ではないです。
どうしょうもなく、自分が否定されたような気分の夜にコンビニで買ったビール飲んでもなかなか酔えず、4本目あたりで仮面ライダーに憧れた幼少期の自分に今の有り様を問われた時にどう答えればいいかわからなくなって、苦しくなったこともありました。
フリーになった今、「正義」を本気で考えてみた結果
ここまで、自分自身の過去の正義に対する定義や、その定義が崩れる時を書いてきました。
自身で事業をやるようになって、ようやく自身の信じる正義を事業に投影できることによって、見えてくることもたくさんありまし、コレを書いている今でさえ正義というものの定義が変化している感じもあります。
考えているうちに、新鮮な発見かもと思ったのは、正義はオフェンスではなくディフェンスなのではないかと。
ディフェンスのための起点が正義なのではないかと。
相対的な悪や困難や自分の意に沿わないものに立ち向かうこと、抗うことオフェンスこそが正義だと思っていたけど、正義を全うするための手段の一つがオフェンスなだけで、守るために撤退すること、逃げることも正義じゃないかと。
自分自身なのか家族なのか、意地なのかこだわりなのか
その守る対象は、立場や生きている時代で変わってくるかもしれませんが、
正義=戦うこと
この固定概念さえなくして仕舞えば、正義を貫くのってずっと楽なのかもしれません。
この固定概念があるからこそ、苦しい思いをしている人も多いはず。
戦うこと以外でも、正義は貫ける。
反対に何かから逃げ出したくなる時、そこに何かを守るための正義があるかどうか考えるのも大事だとも気付かされました。
正義って深いな。
正義のカタチ
最初に
“形や大きさはきっと幼少の頃のものより小さく、角も取れて限りなく球体に近くなってる”
と書きましたが、この後にこう付け加えたい
“その分密度が高く光り輝いている”と
歳をとる間に経験を重ねて、研磨され凝縮されてそうなってるはず。
でも、過去の正義もそれはそれで美しいのではないかと。
それぞれの自分にはそれぞれの正義があるのだから。
ただ、誰かの基準の正義に足並みを合わせる必要が基本的に無くなったのだからこそ、この子供じみたタイトルの記事を書く気にもなれた気がします…。